飯塚事件2 その4
2、久間さん逮捕から死刑判決、そして死刑執行まで
久間さんは、一貫して容疑を否認しましたが、検察は起訴した。平成7年2月の初公判で弁護側はDNA鑑定の結果は信用できないと無罪を主張した。これに対して検察側は計画的で冷酷かつ残虐だとして死刑を求刑していた。
そして、1999年9月29日に福岡地裁の一審判決で久間さんに死刑判決が言い渡されました。
その判決理由は、簡単に言うと「DNA型鑑定や八丁峠の目撃証言、繊維鑑定など状況証拠を総合すれば、久間が犯人だと認定できる」というものだった。
その後、2006年9月8日に最高裁で死刑が確定する。
死刑が確定した際の当時を西日本新聞の傍示氏は、以下のように語っている。
傍示氏
「死刑確定が2006年ですよね。本音は安堵した、ほっとしたというかですね。まあ、我々も久間三千年が犯人だと報道を一貫して続けてきて、ある意味リードしてきて、結果的に死刑が確定したということですごく安堵した、ほっとしたということですね。よかったという思いが一番でしたね。ただ同時にあったのは、やっぱりもう一審、二審の判決の時からどうにも腑に落ちないんですね。本当にこれは久間三千年が犯人なのかと、やっぱり疑問に感じるような審議、証拠の採用がなされていたので、やっぱりもしかしたら違うんじゃないかとの思いも当時既にちょっとありましたんでね。」
そして約2年後、2008年10月28日に久間さんの死刑執行が行われた。ちなみに日本において、最高裁での死刑確定後、死刑が執行されるまでの期間の平均は、約10年間であり、久間さんの死刑確定後から約2年後の死刑執行は異例の早さとも言える。
久間三千年死刑囚は、最後の最後まで自分は無実だと訴えていたそうである。
この久間さんの死刑執行について西日本新聞の傍示氏と宮崎は、それぞれ以下のように語っている。
宮崎氏
「どうやってつれていったか?どこで殺したのか、動機、動機につながるような久間死刑囚のそういう性癖があったのかなども含めて全く分かっていないんですよ、今も。彼に死刑判決を書いた裁判官も分かっていないと。裁判官たちも。複数いますね、一審、高裁、最高裁と。」
もしこの宮崎氏の言葉通りだと、殺害場所、動機等が分かってないで判決をだしたということだ。これもやはりおかしな点であると言わざるを得ない。
傍示氏
「あまりにもね、最高裁の確定判決が出てから、2年くらいだったんで、あまりにも早すぎると。何なんだ、これはと。なぜこんなに早いのかと感じたのはありました。」「これで永遠に謎は謎のまま終わってしまうのかというふうに思ってましたね。結局、この事件はこれで終わってしまうのかというね。だから自分の中にこう沸いてきてたその何ていうか矛盾というか判決への不信とか疑問とか、結局払拭されないまま終わってしまうのか、というような大きな節目だなと感じたのは事実ですね。」