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飯塚事件2 その2

1、事件発生から久間さん逮捕まで 前半

①事件発生から久間さんが容疑者にされるまで

 

事件が発生して現場捜索中の警察官に地元の人が差し入れをしていた。その際、差し入れの人から福岡県警の山田善光警部補が「職場の同僚から聞いた話」ということで最初に死体発見現場(八丁峠)近くでの車の目撃証言を聞くことになったようだ。

 

証言の内容とは山田警部補曰く、「紺のワゴン車だったんで『これ違うよね、犯人じゃないよね、全く関係ない話だよね』と」聞いたということだ。ここがこの事件の一番のスタートになる大事な証言だ。つまり最初は、車の目撃証言はただの「紺のワゴン車」ということであったのだ。これはしっかり押さえておいて欲しい。

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

警察は、この目撃者から話を聞き供述調書を作成したと。

 

詳細は後で説明しますが、その後色々なプロセスがあるのだが、大まかな流れをいうと、たまたま森林公園の方が昼食のために山を下りてきて、マツダのダブルタイヤの車(紺のワゴン車からこれに変わっている。)を八丁峠の現場で目撃したと。そしてこの車の特徴から、久間さんが捜査線上に浮かんだというのである。そして実は、久間さんはこの事件の約3年前の1988年12月4日に起きたアイコちゃん(7歳女児)行方不明事件でアイコちゃんと最後に一緒にいたのを目撃されていたという理由で、警察から過去に疑いを受けていたのである。

 

その後、科警研の鑑定の結果、遺体発見現場に残された血痕と久間さんの毛髪のDNAはほぼ一致し、同一人物の物である可能性が極めて高いとの鑑定結果が出された。

 

それを聞いて福岡県警元捜査一課長、元特捜班長の坂田政晴氏は、当時「DNAが出た、ダブルタイヤが出たということで、逮捕状請求の準備をしろ」と部下に指示しようとしたが、検事は意見が違い、慎重であったと。そして結局、DNA鑑定が今のところ確立していない、発展途上であるということで逮捕状の請求まで行かなかったということである。

 

ただこの段階で、DNA型鑑定の情報をつかんだ西日本新聞がスクープに向けて動き出した。

 

西日本新聞が得た情報では、完全にDNAは一致しているという情報であるものの地検から色々積み残した宿題があるのでそれを消化してくれということで、すぐには逮捕はできないと。その捜査にしばらく時間がかかると、しかし、逮捕までいくことは間違いないというものであった。逮捕まで少し時間がかかりそうだという中で記事にするか思案したが、他の報道機関よりも先にスクープ記事を出したいということで最終的には、報道に踏み切った。その記事が以下の内容だ。

 

1992年8月16日

西日本新聞 「飯塚の2女児殺害 重要参考人浮かぶ DNA鑑定で判明 現場の体毛と一致」

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

それ以外にも久間さんに警察が疑いを持った理由があった。それは久間さんが

 

1)事件の後、異常なまでに車の掃除をしていた

2)事件直後、慌ただしく車を売ろうとしていた

 

 

ということだそうだ。確かにこれを聞くと、まず久間さんはなぜそんなに車の掃除をしたのかと疑問に感じる。

 

ただこれについては久間さんの妻が以下のように説明している。

「やっぱり(警察から)何をされるか分からないと主人の頭にあるんです。やらせっていうんですかね。よくあるんじゃないですか。何もないところかに毛髪があったというんであれば。(席を)自分できちっと掃除して納得いく掃除をしていた上に、そんなの(毛髪)あったというなら自分はやらせだと分かると言っていました。だから掃除した目的はそれでです。自己防衛のためですね。(警察が)何をするか分からないという感じがあるから。」

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

この妻の説明も一定の理解はできる。3年前のアイコちゃん事件で警察から疑いをかけられた経験から、久間さんの中に警察に対する不信感がかなりあったのかもしれない。

 

そしてその後、久間さんが売却した車を警察が押収し、その車から血痕が検出されたが、微量のためDNA型鑑定はできなかった。

 

 

久間さんの任意聴取について当時のことを西日本新聞の元事件担当サブキャップの傍示(かたみ)文昭氏は以下のように語っている。

「常に任意聴取に対しても久間さんは全面否定ですし。その他アリバイもなかったですけども、やっぱ捜査という物は行き詰まったというかですね。そして2年間ほとんど動かなかったです。」

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

警察は、久間さんに疑いが持っていたが、逮捕まで踏み込めないまま、約2年も過ぎた。

 

ちなみに久間さんのアリバイがなかったということであるが、久間さんの妻の説明では、久間さんは事件発生の時間帯は、久間さんの母親のところに米を持って行って、帰りにパチンコ屋に行ってから自宅に帰ったというとである。パチンコ屋の防犯カメラは、調べたときには、時間が経ちすぎていて既に消えていたと。母親の証言は、身内の証言だから裏付けにならないとされたそうである。これについてはどれだけ警察が聞き込み等やったか分からないが、結局、警察は、アリバイがないと判断したのである。

 

 

②2年止まっていた捜査開始、久間さん逮捕まで

2年止まっていた捜査に転機が訪れる。刑事部長と捜査一課長が交代したとことである。その当時のことを元西日本新聞の宮崎昌治氏は以下のように語っている。

 

宮崎氏

「当時親分肌の刑事部長 近藤光信氏、捜査一課長 山方泰輔氏になって、これはいくんじゃないかと。まさに福岡県警の保守本流の二人がそろったので、これは行くぞと、僕の中では高まりましたね。」

 

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 
「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

宮崎氏が予感したように、福岡県警元捜査一課長に山方氏が就任したことで、彼が停滞した捜査を打開し、久間さんの逮捕へとことは進んでいったのだ。

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

まず最初に、山方氏は、検察がストップをかけていたDNA型鑑定の問題に取りかかったのである。

 

東京板橋にある帝京大学の法医学教室の石山昱夫名誉教授は、日本で初めてDNA鑑定を行った。帝京大学は、科学警察研究所が鑑定した試料と同じ物を別の方法で鑑定した。その結果、被告(久間さん)と同じタイプのDNAは検出されていなかったのだ。

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 
「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

そのことを帝京大学 医学部の吉井富夫講師は

「警察がやった(鑑定の)結果とは違う。(帝京大学の鑑定では)久間さんのDNAの混入はないという結果だよね。」とコメントしている。

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

山方氏は、久間さんの逮捕の壁になっていた鑑定結果を出していた石山教授に直接電話を入れた。

 

当時の山方氏が石山教授に電話をかけて話した内容について番組スタッフに以下のように説明している。

 

山方氏

「石山さんが鑑定できないようなわずかなもの(試料)しか回していないんじゃないか。科警研が使い過ぎてしまったんじゃないかと、その物件(試料)を」

 

スタッフ

「そういうところに着目していたわけですか?」

 

山方氏

「あの(試料が)少なかったことは知っていて、私は鑑識課長をしていたから。だから先生、うちが出した物件(試料)が良くなかったのでしょう」と

 

スタッフ

「どういう反応が返ってきたんですか?」

 

山方氏

「『鑑定試料として照合できないようなものだったんじゃないですか』と」

そしてさらに追加質問として

「そしたら(DNA型)合わないんじゃなくて、合わせられなかったんですね」、最後はそうなったと思う。とそしたら(石山教授が)『その通り』と言ったから、私はこれで(逮捕に)いけると思った。

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」 

という証言をしている。これには正直驚いた。もしこの証言の通りなら解析されたデータは全く同じものに対して、解釈を変えられるように誘導したことになるからである。

 

そして、結果として、久間さんのDNA型が検出できず、科警研と違う結果が出ていた石山氏の鑑定を、少量のため久間さんのDNA型が出なかったのだということに変更されてしまうことになる。これは科学鑑定結果のデータが変わったわけではないのに、その解釈だけ変更するように誘導するという、久間さんを犯人にするための恣意的なとんでもない変更ではないか。

 

そして、結局このやりとりを機に、障害になっていた石山鑑定はなくなり、信用性が疑われていた科警研によるDNA型鑑定が証拠として復活したというのである。恐ろしい話ではないか。

「NHK BS1スペシャル 『正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~』より」