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狭山事件 その3

2、事件の考察 ②矛盾した自白

石川さんが逮捕されてから、連日にわたり午前8時頃から深夜の12時頃までの長時間の取り調べが行われていた。

 

その際に殺人を否認したときの取調官とのやりとりについて石川さんはインタビューで次の様に答えている(以下、石川さんインタビュー部分は(石川さん)で表記する)

 

「ひどかったですね。髪の毛を引っ張ったり、頭を小突いたり。一番痛かったのは、拳をもって(頭をぐりぐり)やるんですね」(石川さん)

 

しかし、石川さんは、逮捕後20日間容疑を否認した。そこで一旦保釈してのすぐに再逮捕したのである。このように逮捕を繰り返すことで、精神的に追い詰め自白へと追い込んでいったのである。

 

違法な取り調べをうかがわせる一枚の写真がある。腰紐を付け、手錠を掛けられた状態で取り調べが行われていたのである。

(ニュースの記憶 テレビ朝日から)

「ずっとご飯食べるときも、トイレに行くにも手錠がかかっています。腰縄を持って遠くの方で待っているんですね。」(石川さん)

 

(ニュースの記憶 テレビ朝日から)

心身ともに疲れ果てた石川さんは、善枝さん殺害への関与を自白することになる。逮捕から29日目のことである。「手紙を書いたのも俺で、持って行ったのも俺なんだ」との自白をしたのである。

 

なぜ石川さんは、否認から一転して罪を認めたのか

 

「私が自白しないものですから『お兄さんを逮捕しなくちゃならないな』ということになっちゃったんですね」(石川さん)

(ニュースの記憶 テレビ朝日から)

警察は犯行現場の足跡が、石川さんの兄、六造さんの足袋と一致したと迫り、六造さんが犯人だと石川さんに思い込ませたのである。(この六造さんの足袋については最後のところで少し取り上げる)

 

「私も逮捕間もなかったので当日の兄貴のことを言われてみたら、深夜に帰ってくることが多かったんですね。兄ちゃんが犯人だと自分でも思ってしまったんですね」(石川さん)

(ニュースの記憶 テレビ朝日から)

石川さんの家庭は、貧しく食べるのがやっとだった。お金のない日は、鳥の餌を主食で食べていた。その生活を変えたのが兄だった。父親が働けなくなったあとは、兄の六造さんが一家を支えていた。すなわち、兄の逮捕は、一家が路頭に迷うことを示していた。

 

「兄ちゃんが逮捕されると困るなと。自分自身で勝手に思い込んでしまったんですね。」「最終的に『私にして下さい。』と自分から言ってしまったんですね。」(石川さん)

 

それ以降取り調べ官の誘導されるままに石川さんは供述を重ねていった。一審でも自白を維持し、審議は6カ月で終了した。

 

そして1964年3月11日に下された判決は死刑だった。

 

しかし、兄の六造さんにはしっかりとしたアリバイがあったのである

しかしそれを石川さんが知るのは死刑判決が出た後であった。

 

事実を知った石川さんは、当然一転して闘うことを決意する。二審の冒頭で裁判長の制止を振り切り石川さんは声を上げた「私は善枝さんを殺してはいない。」

 

しかし、1977年8月16日、石川さんの無期懲役が確定した。こうして94年の仮出獄まで31年間、青春時代のすべてを獄中で過ごすことになったのである。

 

※これ以外にも、石川さんの自白は、身代金を要求した犯行動機について、以下の様に様々なものに変更されたのである。

 

1)競輪に使うため

2)オートバイを買うためのお金や修理代、ガソリン代などで父親に13万円程度借りており、その返済のため

3)家に居づらく、東京に出て行くため

 

1)については、石川さんが競輪で使った金額は大したものではなく、のめり込んだ様子もなく、そのため多額の借金をした事実もない

2)については、父親が石川さんに返金を催促したこともない

3)については、「板橋の姉のところに行って働こう」と考えており、行く宛もなく東京に行くということではない

 

これらを見てわかるととおり、誘拐して身代金を取るような重大な犯罪を行う動機としては、あまりに些細な事であり、このような重大な犯罪の動機として非現実的だとしか思えない。しかもこれらの動機がコロコロ変更されることも理解できない。そもそも強姦強盗殺人のような重大な自白をしようとする人が、以上のようなある意味小さな動機の部分について嘘をつき、コロコロ変更する必要も無いわけである。