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和歌山毒物カレー事件 その4

2、ヒ素の科学鑑定の信憑性、その意味2

②スプリング8のヒ素の鑑定結果について

次に一番重要なヒ素の科学鑑定について紹介する。先ほどの林さん宅の台所から見つかったプラスチック容器に付着していたヒ素があまりに微量だったため、科警研で鑑定することができなかった。そこで検察は、東京理科大理学部応用化学科の中井泉教授に鑑定を依頼した。中井教授は、兵庫県の須磨科学公園都市にある円周約1.5キロもある大型放射光施設「スプリング8(Spring-8)」を使って鑑定を行った。

 

この鑑定の結果中井氏は、「プラスチック容器に付着していた亜ヒ酸」、「青色紙コップに付着していた亜ヒ酸」、「カレー鍋から見つかった亜ヒ酸」、「林さんの夫の健治さんが所持し、その後親戚M氏に譲ったドラム缶入り亜ヒ酸」の四点について鑑定し、これらすべてが「同一の工場で同一の原料を元に同一時期に製造された亜ヒ酸である」と結論付けた。

1998年12月23日 朝日新聞より

メディアはこの中井氏の鑑定を受け、「亜ヒ酸は同一」「同じ亜ヒ酸」という見出しで、「スプリング8」による最先端の科学鑑定が、犯人を特定することを可能にした」と報じた。

 

この「亜ヒ酸が同一、同じ亜ヒ酸」との報道で林さんがカレーにヒ素を入れた犯人だと誰もが思ったと思う。普通これを聞けば当たり前だ。最先端の巨大施設を使った科学鑑定で結果が出たとのことだから、そう思って当然だろう。

 

しかし、これには穴があることが後に判明する。これについては多くの国民が知らないのではないかと思う。当方もこの事件について調べるまで知らなかった。

一番分かりやすい内容から紹介する。

 

まず始めに、鑑定が行われた亜ヒ酸には、「カレー鍋から見つかった亜ヒ酸」、「プラスチック容器に付着していた亜ヒ酸」、「紙コップに付着していた亜ヒ酸」以外にもある。以下の図の「M氏 緑色ドラム缶」、「M氏ミルク缶」、「M氏 白色缶(重)」、「M氏 茶色プラ容器」である。さらに林さんの夫の健治さんの知人のT氏宅に保管されていた亜ヒ酸「T氏 ミルク缶つよいこ」の合計8つである。

図1、事件に関係した亜ヒ酸の起源と移動 (現代化学2013年8月 放射光X線分析による和歌山毒カレー事件の鑑定 中井泉、寺田靖子より)

検察が裁判所に提出した論告での主張は、林さんが以前に住んでいた旧宅のガレージに置いてあった「つよいこのミルク缶」に入った白アリ駆除剤を新宅の台所の流しの下から見つかった「プラスチック容器」に一部を移し、それを夏祭りの日に紙コップに入れてカレー鍋に投入したということで死刑を求刑した。

しかし、ここで大事ことは、中井氏が鑑定で結論付けたのは、「プラスチック容器に付着していた亜ヒ酸」、「青色紙コップに付着していた亜ヒ酸」、「カレー鍋から見つかった亜ヒ酸」等が、「同一の工場で同一の原料を元に同一時期に製造された亜ヒ酸」であるということだけである。

つまりプラスチック容器の亜ヒ酸、青色紙コップの亜ヒ酸、カレー鍋の亜ヒ酸が「同一」だとの結論ではなく、「同一の工場で同一の原料を元に同一時期に製造された亜ヒ酸」である、つまり「同一起源」だということなのである。これには大きな違いがある。「すべての亜ヒ酸が同じドラム缶の亜ヒ酸を起源」としているという意味であって、「同じもの」とまでは言っていないである。

 

しかも驚くべき事に、亜ヒ酸は白アリ駆除のほか、殺鼠剤やみかんの減酸剤、農薬としても需要があり、事件当時、和歌山市内だけでもこの「同一の工場が同一の原料を用いて同一の時期に製造した亜ヒ酸」が、大量に出回っていたのである。日本国内では50キログラム入りのドラム缶が60個流通し、和歌山市内にもいくつかのドラム缶が流通していたのだ。

 

この事実からいって、中井氏の鑑定結果の「同一起源」ということをいくら証明されたとしても、それだけで林さんが犯人だと言うことにならないのである。林さん宅以外の和歌山市内に出回っていた「同一起源」の亜ヒ酸が、事件に使われた可能性が十分にあるからである。これは本当におかしな話である。

 

しかし、世間は「同一起源」と「同一」とを取り違えて解釈しているのではないだろうか。

 

そしてこの同一起源の鑑定結果を出した中井氏でさえ、自分の論文で次のように述べている。

 

「われわれの鑑定からいえることは、カレーの中の亜ヒ酸、紙コップの亜ヒ酸(B)、H被告人の台所のプラスチック容器の亜ヒ酸(C)は、昭和58年ごろH被告人の夫がシロアリ駆除作業のためにN商店から購入した緑色ドラム缶に入った亜ヒ酸(D)と同一の起源をもつということだけですが、重要なのはAとCを分析できたことです。河合さんは、われわれの鑑定結果だけでH氏が有罪か無罪かを判定しようとされていますが、われわれの鑑定だけで判決が下せるものではありません。たとえば図1のEに示すようにDと同時に同一の起源の亜ヒ酸が複数輸入されていますので、その亜ヒ酸が第三者の手によってカレーの中に入れられた可能性は、われわれの鑑定結果からは否定できません。これは、司法機関が別途調べるべきことで、われわれの鑑定書の範囲外です。」

(現代化学2013年8月 放射光X線分析による和歌山毒カレー事件の鑑定 中井泉、寺田靖子より)

(なお、ここで「A、B、C、D、E、H、N」は図1での記号を意味している)

 

そして中井氏は、この論文の中で

 

カレーA、紙コップB、プラ容器C、ドラム缶Dの亜ヒ酸が同一の起源かどうかを異同識別することが、筆者らに検察庁から依頼された鑑定嘱託の内容です。

(現代化学2013年8月 放射光X線分析による和歌山毒カレー事件の鑑定 中井泉、寺田靖子より)

※(異同識別とは、犯行現場で発見された由来不明の試料と被疑者の周辺で採取された由来の明らかな試料(対照試料)に同じ検査を適用し、検査結果に基づいて両者が同種のものであるか否かの考察(「犯罪捜査への応用」 鈴木康弘(科学警察研究所)より))

 

と書いている。

 

つまり中井氏は、この検察庁から依頼通りの鑑定を行っただけである。検察庁はなぜ、カレー鍋の亜ヒ酸、紙コップの亜ヒ酸、プラスチック容器の亜ヒ酸の「同一性」そのものではなく、「同一起源」の鑑定を委託したのか?同一起源が証明されたとしても、それだけで林さんが犯人であるとの決め手にならないのにである。

 

この図のように右のルートをたどって元が同じドラム缶の亜ヒ酸だとわかったとしても、「同一工場で同一の原料を使って同一の時期に製造された亜ヒ酸」が他にも流通していた事実からして、左のルートから亜ヒ酸がカレーに入れられた可能性が残っていることになる。

 

このことから、中井氏の鑑定結果の「同一起源」ということが証明されたとしても、それだけで林さんが犯人だと言うことにならない。

 

林さんから自白が得られれば、状況証拠だけで有罪にできると考えたからであろうか・・・?

 

 

備考)ヒ素と亜ヒ酸とは

①ヒ素:原子番号 33 の元素。元素記号は As。第15族(窒素族)の一つ。

②亜ヒ酸:化学式がAs(OH)3の無機化合物である。これは、As2O3が水に溶けたときに生成する物質。無味無臭のさらさらとした白色粉末である。

 

ヒ素を含む化合物は毒性が大きく、発癌性を有する。無水物である三酸化二ヒ素は除草剤、殺虫剤、殺鼠剤に使われている。また、亜ヒ酸は、ほぼ無味で無臭のため、昔から毒殺のために使用されてきた歴史がある。