ロゴ


元刑務官「心臓がどくんと動いていた」 死刑制度考える

https://www.asahi.com/articles/ASL8K44YNL8KULZU006.html

元刑務官「心臓がどくんと動いていた」 死刑制度考える
聞き手・阿部峻介 酒本友紀子
2018年8月26日08時02分
 

 オウム真理教元幹部13人の死刑が7月に執行されました。「世論の多数が極めて悪質・凶悪な犯罪について、死刑はやむを得ないと考えている」と上川陽子法相が会見で述べたように、世論調査では容認が多数を占めます。一方、公権力が人の命を奪う「究極の刑罰」だけに慎重論も根強くあります。情報公開のあり方を含め、みなさんと考えます。

 

 

人を殺す 立ち会いで実感 元刑務官 野口善国弁護士

 死刑を執行するとはどういうことなのか。強盗殺人事件で死刑が確定した男の執行に立ち会ったのは、刑務官になって間もない1971年末ごろでした。

 

 当時の東京拘置所は執行の前日、本人に告げていて、電報を受け取った奥さんと親戚が慌てて面会にやってきました。奥さんは泣いてばかりで、男は「責任をとるだけのこと。人間はいずれ死ぬ」と慰めていました。30分ほどの面会の最後、奥さんが「息子の顔があなたに似てきた」とだけ言えたのを思い出します。

 

 翌朝、刑場に付き添いました。所長以下10人ぐらいが並び、所長が「何か言い残すことはないか」と尋ねると、男は「お世話になったみなさんと握手したい」と言いました。それが終わると、別の幹部が「決まりだからそろそろ行くぞ」と。布で目隠しをされ、後ろで手錠をされると目の前のカーテンがするすると開き、天井から垂れ下がる縄が現れました。

 

 その下に連れて行くと、足元には1メートル四方ぐらいの踏み板があり、僕はそのそばに立っていました。首に縄がかけられ、幹部が合図をすると、ガラス窓の向こうにいる職員3人が3本のレバーを同時に引きました。誰が直接、命を奪ったか分からないようにする仕組みです。バーンという大きな音で踏み板が開き、男は目の前から消えるように落ちました。

 

 反動で大きく揺れる縄の動きを止めようと、僕は思わず手を伸ばして縄をつかみました。穴をのぞき込むと、地下に控えていた医務官が男の胸をはだけて、聴診器を当てている。心臓がどくんどくんと動いているのが分かりました。「いま助ければ、まだ生きられる」などと考えたのを覚えています。

 

 法律で決められたことですから、広くいえば正義の実現だったのかもしれません。でも実感は、人が人を殺しているというものでした。それがいいとか、悪いとか言うつもりはありません。ただ合法的にこういう行為をさせるのなら、実情はどうなのか、国民も国会議員も、裁判官も知ってほしいと思います。

 環境が合わず3年後に退職したので、立ち会ったのはこの時だけです。ただ、いまも絞首刑という方法は変わっていません。現実を理解した上で、議論を深めてほしいと思います。(聞き手・阿部峻介)

 

国民的議論 国会がリードを 2人の執行命令書に署名 千葉景子元法相

 私自身は死刑廃止の立場ですが、法相の在任中の2010年7月には2人の執行命令書に署名しました。矛盾しているようですが、大臣の裁量で執行したり、しなかったりする制度にはなっていないし、自分の考えだけで「やりません」と済む問題ではない。きちんと向き合った上で、議論の方向をつけることが必要だと思ったからです。

 

 サインするだけでは無責任だと思い、執行にも立ち会いました。人の死として妙な形でした。すごく機械的で、段取りが整っていて、粛々と進んでいく。そうした全体の構造が残酷だと感じました。淡々と進めることで残虐性を緩和したいのかもしれませんが、誰もがやりたくないから、そうせざるを得ないのではないでしょうか。

 

 執行に立ち会った翌月、東京拘置所の刑場を初めて報道陣に公開しました。あまりにも閉ざされすぎて、死刑制度についての議論も空中で交わされていると考えたからです。情報がないままで「どうですか」と問われれば、世論調査でも「(存置のままで)いいんじゃないですか」、となるのは当たり前です。

 

 執行への立ち会い、刑場公開に続き、法務省内にも勉強会を作りました。しかし、8年たった今も、国民的な議論にはなっていない、と感じています。一般的に死刑は自分に関わることではないから、そうした議論を求めるのは難しいことなのかもしれません。

 だとすれば、国会がリードすべきだと思います。国際的な流れからしても、いつまでも「両論ありますね」ではいかないと思います。政治家のリーダーシップで議論を動かしてほしいです。(酒本友紀子)

     ◇

 〈日本の死刑制度〉 日本の死刑は法務大臣の命令によって、全国7カ所の拘置施設で執行されます。執行方法は刑法で絞首刑とされており、具体的な方法は1873(明治6)年の太政官布告で決まってから変わっていません。

 

 この10年間の執行状況は、0人だった2011年を除き、年間2~13人で推移しています。一方で、死刑判決は減ってきており、00~07年は一審で毎年10人以上が死刑を言い渡されましたが、12~16年は2~5人でした。7月末現在、死刑が確定しているのは111人。静岡一家4人殺害事件で再審請求中に釈放された袴田巌さんを除く、110人が収容されています。

 

 刑事訴訟法は、判決確定から6カ月以内に死刑を執行すると定めていますが、昨年までの10年間に執行された計52人でみると、確定から執行までの平均期間は約5年2カ月でした。再審請求中は執行を避ける慣例もありましたが、昨年からは再審請求中の執行も相次いでいます。

 

 法務省はかつて、執行の有無も公表していませんでした。しかし1998年からは執行の事実と人数、07年からは執行された死刑囚の氏名なども発表しています。

 

 

命で償って 犯罪抑止に疑問

 朝日新聞デジタルのアンケートに寄せられた声の一部を紹介します。

 

●「親しい友人の家族が、残酷な殺され方をした。友人は、犯人に対して同じように殺してやると、自動車で突入したり、ガソリンを用意したり、鋭利な刃物、拳銃などを用意した。俺は復讐(ふくしゅう)に殺しに行くんだ、殺してやると言った。それを聞いた。『よし行ってこい! 手伝ってやる!』と言えるか? おそらく、『やめろ、お前まで人殺しになる』と、止めるのではないか。被害者の苦しく耐えがたい心情、報復感情も理解できる。死刑について、十分な情報が公開されてない以上、ひとまず死刑制度を停止する。そして、死刑の実態を明らかにして、国民が死刑について考えることが、急務だと思う。法治国家といえども、人を殺すのだから」(和歌山県・60代その他)

 

●「理論上で考えれば、公権力が人の命を奪うことへの疑問が残るが、もし我が子や親兄弟の家族の命が奪われたとしたら冷静に死刑は廃止にするべきとは絶対に言えないため、死刑はあった方がよいと考える。そのためには冤罪(えんざい)はあってはならないし、過去の反省を踏まえてしっかり冤罪を防ぐ防止策を作らねばならないと思う。日本の司法は逮捕された瞬間から、家族とも一切会えず密室の取り調べの中で、追い詰められて事実とは違うことを言ってしまうことがいまだにある。数年前に知人が痴漢の疑いで逮捕されてからの3カ月間は友人、同僚、弁護士事務所の総動員で同じ時間の同じ車両での証人探しに奔走して、冤罪を晴らしたが怖さはとても人ごとではない」(東京都・60代女性)

 

●「私が犯罪被害者の家族だったらと、よく考える。犯人には、事件と向き合い続け、悔いて、悔いて、苦しみながら反省してほしい。二度と同じような事件が起きないよう、徹底的に動機やその背景を解明し、社会の在り方も変えるきっかけにしてほしい。死刑は犯罪をすべて個人の責任にして、社会が変わり得る可能性も断ち切ってしまうと思う。(今回のオウムの多人数の死刑は、事件を解明しないためかと思うほどひどい)。国家が個人の命を奪う、殺すことを認めることは、理由があれば殺人を容認するということで、命を軽んじることにもなる。平気で死刑を断行する国家権力は、恐ろしい。国家権力はいつも正しいと限らないことを肝に銘じたい」(京都府・50代女性)
 

 

●「どんな形であれ、人を死に追いやった方は、いかなる人でも死刑にしていいと私は強く思います。人はこの世に生を授かり、亡くなるまでそれぞれの生き方で幸せに生きていく権利が誰にでもあります。それを簡単に奪う権利は誰にもないと思います。周りの家族のことを考えたとき、殺された事実を忘れることはできないまま生涯を終えることはつらすぎます。そういう重い責任を自らの命(死刑)で償うべきと思います。そういう意味でも、例えば刺殺したのであれば、同じ刺殺であるとか、死刑手段も同じ目に遭わせて加害者には苦しみを理解してもらいたいと個人的に思います」(長崎県・30代女性)
 

 

●「気がつけば死刑が当たり前のような世の中になってきている気がします。何のため、誰のため、死刑が必要なのか私は近くに感じたことがないので、賛成も反対もできません。被害者の家族の気持ちになったら死刑を賛成するかもしれませんが、犯罪者が死刑があるから犯罪の抑止になっているとはあまり思いません。昔と違い死刑が普通だと思って育ってしまう子供たちが心配です。また、最後に死刑の執行をする刑務官の方たちの気持ちはどうなのかも心配です。死刑を執行する方たちもまた、結果人を殺していますよね。仕事だから、命令だから、それともそれにやりがいを持っているからか。私には犯罪者だからといっても出来ないことだなと思います」(神奈川県・30代男性)
 

 

●「この議論では、どうしても感情論が先行してしまう気がします。凶悪な犯罪の被害者や遺族にとっては、加害者のことは許せるものではないと思います。『殺してやりたい』と思うのも無理はありませんが、本来、死刑という刑罰が本当に必要なのかというのは法制度上の問題で、感情論とは切り離して考えるべきものだと思います。私はこの制度に反対します。この国で国家が人の命を奪うということは、主権者である私たち一人一人が処刑に加担するということを意味します。死刑囚の家族は遺族となり、一方で被害者遺族の悲しみが癒えることはありません。付け加えると、犯罪の抑止効果があるというデータを見たこともありません」(埼玉県・30代男性)
 

 

●「今まで、死刑に対して否定的であったものの、仕方がないと思っていました。今回のオウム関連の大量執行を受けて意見が変わりました。犯人を殺しても似たような犯罪が次に起こるのを防げるわけでもなく、ただ、報復行為の正当化につながるだけのように思います。犯人と共に罪に向き合う社会づくりを推し進め、犯罪を未然に防ぐ、心や経済面のサポート機関の整備に取り組んでほしいと思います」(海外・30代女性)
 

 

●「自分の愛する人、家族が理不尽に殺されたら、と思うと自分も残された家族も、もうそれ以前の生活、精神ではいられません。強く、犯人に殺意を抱くと思います。死刑がなければ、報復殺人を犯すかもしれません。死刑で犯罪は抑止できない、という意見もありますが本当にそうでしょうか? 日本の治安が長年継続して良いのは、死刑制度があるからかもしれないと思います」(東京都・40代女性)