死刑制度の是非をテーマに激論!海城中学校の社会科ディスカッション授業
https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20180707-00088501/
死刑制度の是非をテーマに激論!海城中学校の社会科ディスカッション授業を実況中継
おおたとしまさ 7/7(土) 17:08
2018年7月6日、オウム真理教代表の松本智津夫ら7人の死刑が執行された。同日に7人もの死刑が執行されることは稀で、世界にも衝撃を与えた。
私たちは「民主主義国家」に暮らしている。その国家において、正式な法に基づいて、1日に7人の死刑が執行された。極論すれば、約1億3000万人の主権者が共同責任で、1日に7人の人間の命を奪ったともいえる。その事実から目を背けるべきではない。
いま私たちは、オウムとは何だったのかを振り返るだけでなく、死刑制度そのものについても改めて考えるべきではないか。
かといって、死刑制度について議論できるだけの基礎知識をもつひともそれほど多くないだろう。これを機に、関連書籍を何冊か読んでみようと私も思っているが、拙著『海城中学高等学校』(ダイヤモンド社)の中にも死刑制度について触れた文章があることを思い出したので、該当部分をほぼそのまま転載する。
東京新宿区にある私立男子校・海城中学高等学校、中1の社会科の授業の実況中継である。取材を行ったのは2015年6月。ちょうど前日に、死刑が執行されたため、急遽、授業内容を変更。死刑制度についてのディスカッションを行うことになったのだった。
中1の授業だからといって侮るなかれ。多くの大人にとっても、死刑制度の賛否を巡る議論の初歩的な視点を得ることができるはずだ。
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今回は中1の「社会1」を見学する。取材をしたのは6月。まだ海城に入学して2カ月しか経っていない生徒たちの様子である。
担当教員は八塚憲郎教諭。この日は「模擬裁判」をやると、事前には聞いていた。しかし急遽予定が変更になった。授業の前日に、死刑執行というニュースが話題になっていたからだ。それでこの日は急遽、死刑制度についてのディスカッション型のディベートを行うことになった。参考資料として、3枚のプリントが配付された。死刑制度に関するさまざまな新聞記事の切り抜きのコピーだ。2010年8月に公開された死刑の刑場の写真や図解が掲載されている。
「最高裁判所で死刑判決が確定したら、刑事訴訟法上は6カ月以内に死刑を執行しなければいけないのですが、実際はかなり長期間かかかってるわけだよね。だからこそ、君たちが勉強した島田事件で冤罪だった赤堀政夫さんは、34年8カ月後に、奇跡的に死刑台から生還することができたわけだけれども」
初っ端からかなり速いペースで授業が進む。専門用語も頻繁に使われるし、過去の授業で扱った事例については理解している前提で話が進められる。
死刑制度の概要と現実をインプット
「死刑を執行するに当たっては、死刑執行の起案書というのがまずつくられます。法務省の刑事局がそれを見て審査して、GOサインが出ると、その起案書が法務大臣に上げられ、法務大臣が厚さ15センチメートルくらいにもなる資料を読んで、最終的には印鑑を押すか署名をします。すると死刑執行命令書というのが作成され、その死刑囚がいる拘置所に回される。所長は、5日以内に死刑を執行しなければなりません」
テーマがテーマであるし、八塚教諭の語り口も早くて熱い。生徒たちは固唾をのむように先生の話に聞き入る。
「死刑囚がどんなに凶悪犯であったとしても、全国に7カ所だけある、死刑場が設置されているところに配属された刑務所の職員は仕事として人を殺すわけだから、ものすごいプレッシャーがあるよね。それで精神的にまいってしまったということも過去にはあって、小菅拘置所では今、死刑執行のための3つのボタンがあって、3人の職員が同時にボタンを押すことで、誰が執行したのかがわからないようになっています。過去にボタンをどうしても押せなかった刑務官がいて、実はそのボタンこそが死刑を執行できるボタンだったという事件もありました」
死刑制度という概念的なしくみだけでなく、死刑執行のリアリティについても説明する。そのうえでディベートを始める。
クラスを半分に分けてディベート
「それじゃさ、今日はこっち半分とこっち半分でクラスを2つに分けます。向かい合うように、机の向きを変えて。これからディスカッションします。いつも言っているように、感情論ではなく根拠を言おうということです。根拠を言えば、議論ができる」
死刑制度がいいのか悪いのか、白黒付けることが目的ではなく、論理的な議論をするための思考法・表現法・マナーを身につけることが目的だ。八塚教諭は黒板のまん中に線を引き、左側に「肯定側」、右側に「否定側」と書いた。そこにそれぞれの発言の要旨を書いていく。
「はい、頭をクリアにしてね。自分の言葉でいいから、こちら側はなぜ死刑制度が必要なのかという根拠を考えて。こちら側はなぜ死刑制度は否定しなければいけないのかという根拠を考えてください。自分の個人的意見とは違うかもしれませんが、どういう論理が組み立てられるかということを勉強してもらいたいと思います。まずは『積極的根拠』を発言してみてください」
早速一人の生徒が手を挙げる。
「死刑制度がなければ、自分が犯罪を犯してもどうせ死なないやと思ってしまう人が増えたり、同じ人が何回も凶悪な犯罪を犯す可能性があると思います。だから死刑制度は、いちばん最後の手段としてもっておくべきだと思います」
「はい、いいですね。ある特定の犯罪者が人を殺したとする。その人が社会に出たときにまた同じことをくり返すかもしれないと。つまり、特定の犯罪者が社会に出ないことで、同じ犯罪をくり返さないようにする機能があるということね。このことを、特別な人間から社会を防衛するという意味で、専門用語では『特別予防』といいます。ほかに意見あるかな」
「死刑を最後の手段として用意しておくことによって、死刑になることを恐れて、犯罪をしなくなる効果があると思う」
「うん。死刑が見せしめになることによって、一般の人々が犯罪を思いとどまる可能性があるということだよね。これは一般の人々を犯罪から予防するという意味で『一般予防』と呼ばれます。あるいは、『犯罪抑止効果』『心理強制説』などとも呼ばれます。ほかには?」
「人を殺しちゃったりした場合には、遺族はもう許せないと思うから、だから死刑は必要だと思う」
「自分の愛する娘を殺されてしまった痛み、悲しみ、苦しみ……。でもその犯人が、今も自分と同じ空気を吸っていることを許せないという感情だね。遺族感情として、肉親を殺した犯罪者が生きていることが許せないということだ」
授業中、どんどんと手が挙がる理由とは?
生徒たちの発言を、八塚教諭は丁寧に拾い、専門用語を織り交ぜながら熱を込めて解説する。表現は多少つたなくても、先生がちゃんと趣旨を理解して、論理立てて説明してくれるという安心感が生徒たちに伝わる。だから段々と手が挙がる数が増えてくる。
「遺族感情に関してはとても難しい。あとで否定側の立場からも論じられると思う。非常に哲学的な問題だ。ほかにあるかい?」
「こっち側が死んだのに向こうが死なないというのは、不公平……」
「うん。太古の歴史から、自分でやったことについてはやったことに見合うだけの責任をとれよという、そうすることによって社会の安定は図られるという考え方がある。目には目をという考え方。これは太古の歴史から否定できない考え方だよね。この考え方を『応報刑思想』といいます。じゃ、次、否定側の意見を聞こうか。反論はあとでやろうな。まずは否定側の『積極的根拠』を示そう」
以下のような意見が出た。
「冤罪の危険性がある」
「犯罪者にも、教育を含めた刑罰によって更生の可能性がある(「教育改善刑思想」)」
「刑務所の職員の中での仕事の差別につながる」
「遺族感情としても、犯人に長い時間をかけて後悔の涙を流してもらい、謝罪の言葉を受けたほうが、本当の慰めになる」
相手を打ち負かすことが目的ではない
「無期懲役」は法律上は10年経ったら刑務所から出られる資格があることになっているが、実際には40年経っても出られないケースがほとんどで、事実上は「終身刑」に近い形になっていることなど、生徒たちの発言にからめて、関連知識も説明する。
まれに論点を外した発言もあるが、そんなとき八塚教諭は「それは死刑制度というよりも裁判員制度の問題点ね。それはちょっと置いておこう。またあとで議論しよう」と言って切り分ける。
次々と生徒からの発話を引き出し、論点を整理していく。「海城のマイケル・サンデル」との噂は聞いてはいたが、聞きしに勝る見事な授業運びである。生徒たちが一生懸命思考しているのは当然だが、八塚教諭自身の頭脳もフル回転していることが、こちらまで伝わってくる。ものすごい迫力だ。
「頭をクリアにして考えてね。今日、急にやってるからね、難しいと思うけど。そうはいっても中1でここまで発言できたらたいしたもんだ。がんばれ」
厳しい表情が多い八塚教諭だが、時折笑顔を見せて生徒たちを鼓舞する。
「いいか、この太古からある『応報刑思想』と近代市民社会的な『教育改善刑思想』は対立するんだ。そして、遺族感情としても、『目には目を』という発想と、時間をかけて後悔してもらって心からの反省の弁をもらうほうがいいという発想は対立するんだ」
対立する意見のどちらも論理的な根拠をもっている。どちらが論理的に正しいなんてことはいえない。これが現実社会の難しさである。まったく同じ事象を目の前にしていても、立脚する価値観が違えば結論が真逆になる。そのことに体感的に気づく効果が、ディベートの授業にはある。相手を打ち負かす論術を身につけることが目的ではない。
ときには立場を変えて考えてみる
「じゃ、今度は全員肯定派になって考えてみて。ほかに根拠はない? なんでもいいよ。頭をクリアにして」
「そもそも死刑制度ができたときに国民の多くが賛成していたからできたのだと思うので、国民の多数意見には逆らえないと思う」
「うん。よく出た。実は日本政府が国連に対して説明している、死刑制度存続の最大の理由の1つが、国民の多数が死刑に賛成しているということなんだ。じゃ、今度は全員死刑反対派になってみて。誰か、意見言ってみて」
複数の手が挙がる。
「死刑という行為自体が人の命を奪うという行為だからいけないことだと思う……」
「うん。今言ってくれたことはかなりレベルの高いことなんだけど。つまり、国家として、殺人というのは最悪の行為と評価しているんだよね。殺人は最悪の行為と評価する国家が、同じ悪を行っていいのか。国家はあくまでも善で対応すべきではないのか。そういう議論だよね」
それぞれの主な積極的根拠が出そろった。
根拠が出そろったら、ようやく反論
「それでは今度は、お互いの積極的根拠に対する反論を考えてみてください」
双方が主張する根拠の論理的矛盾や飛躍を指摘する段階に移行する。これが論理的な議論の作法である。いきなり相手の意見を否定するのではなく、論点をすべて俎上に載せてから、一つひとつ吟味する。でなければ、問題の全体像が見えてこず、偏った議論になってしまう。
たとえば、「刑務所の職員の中で、死刑執行をするか否かという仕事内容での差別が起こる」という死刑否定派の根拠に対しては、「職業選択の自由があり、死刑執行をする可能性がある職業を自ら選んでいるのだから、それは職業上の強制には当たらない」という反論が出された。「これは当然成り立つ反論だよね」と八塚教諭。
同じく死刑否定派の「犯罪者にも更生の可能性がある」という意見に対しては、「いくら教育しても更生は難しいのではないか」という反論が出た。しかし、八塚教諭は「たしかにそういう考えもあるよね。でもこれは何ともいえない。更生できるのかできないのか、根拠の示しようがないから、水かけ論になる可能性が高い。ちょっと置いておこう」と制した。
意見を支える根拠は何か?
どんどん手が挙がる。いろいろな意見が発言される。
死刑肯定派の「死刑が見せしめになり、犯罪抑止効果をもたらす」という意見に対しては、「死刑が必ずしも見せしめにはならないと思う」という反論があった。しかしそこで八塚教諭は、「なんで死刑は見せしめにならないと思うの。その根拠を言ってほしいんだ」とつっこむ。口ごもった生徒に対し、まわりの生徒たちが助け船を出す。「計画的な完全犯罪をしようとする人や、怒りで頭が真白になっている状況での犯罪に対しては、死刑があっても抑止力としての効果は期待できないのではないか」という意見が出た。
「アメリカでは14州が死刑制度をもっていないのね。だから死刑制度がある州とない州で、犯罪率を比較することができる。1959年に社会学者のセリンという人が調べたら、死刑があってもなくても犯罪率には差がなかったという結果が出ました。でも、念のため言っておくと、1975年に、エールリッヒという人が、統計上、1人の死刑によって6~7件の殺人が減少しているという逆の報告もしているので頭に入れておいてください」
現実社会に密接に関係しており繊細なテーマである。八塚教諭も、教室の中での議論とはいえ公正さには細心の注意を払っていることがうかがえる。
「国民の多数が賛成している」という意見に対しては、「そもそも死刑制度の現実についてほとんど情報が開示されていないのに、国民が賛成とか反対とか言ったところで、その根拠がない」という意見が出された。
「うん。判断材料が少ない状態での賛成多数って意味があるんだっけという問題。ちょっとこれ、みんなで論じてみようか。さらに反論がある人いる?」
一人の生徒が手を挙げる。
「憲法があって、基本的人権があるじゃないですか。人を殺すということは……」
「うーん、ちょっと待った。君が言っていることはすごくいいことなんだ。だけど今はここ、賛成多数だから死刑制度は肯定されるべきかという論点について、議論したいんだ。大上段の話をもってくるのではなくて、この中での話に限定していいかな」と八塚教諭、遮った。
これは非常にいい訓練だと私は感じた。大人同士の議論、企業の会議においても、国会での議論においても、部分的な論点に固執してしまったり、階層の違う議論が始まってしまったりして、論が空を舞うことがある。議論全体を俯瞰する視点がないからそうなる。
しかし中学生のうちからこのような訓練を受けていれば、論理的に議論を進めることが当たり前だと思うようになるだろう。
情報を疑ってみるリテラシーも必要
「世論調査を、根拠にしていいのか。たとえば、大量に人が殺されるような凶悪犯罪があった直後に、質問にそのことをにじませてアンケートをとれば、死刑賛成派が増えるはずだ。逆に島田事件のような冤罪事件が明るみに出た直後にアンケートをとれば、死刑否定派が増えるんじゃないかな。国民の意見というのも、操作しようと思えばできちゃう可能性があることも頭のすみに入れておいたほうがいい」
これも社会問題を考察するうえでは重要なリテラシーである。
「ちょっと厳しいんだけど、これやってみる? 冤罪。冤罪どうですか?」
授業時間が残りわずかになり、八塚教諭が論点を提案する。生徒がそれを受け、果敢に発言する。そしてそれを八塚教諭が受ける。
「今、彼が言ってくれたのは、こういうことだね。たしかに冤罪は生じうる。でも、その可能性は『万が一』くらいかもしれない。その『万が一』のために、死刑制度そのものをなくしてしまうというのはどうなんだろうという問題提起だよね。どんな制度にも問題点はあるんだからという反論だね。ほかにない? 冤罪というのはさ、死刑肯定論の弱点だよ」
短い時間で以下のような意見が出た。
「たった一人であっても、国家の手によって、間違いで人を死刑にしてしまうようなことは絶対にあってはならない」
「実際には犯罪を犯していない人を死刑にしても、本当の意味で遺族の慰めにはならない」
筋書きのない授業
「時間がないからもう1点だけ。憲法論がないんだけど。憲法論的な立場から意見ない? 実は憲法36条に、『残虐な刑罰は絶対にこれを禁ずる』というのがあるんだ。これだけ最後に付け加えておくよ。絞首刑というのは残虐な刑罰に当たるんじゃないかという主張があります。最高裁は、1948年3月12日、戦後すぐですね、たとえば八つ裂きとかは残虐だけど、絞首刑は残虐な刑罰には当たらないという見解を示しています。しかしそこでも4人の補充意見がありました。その後も最高裁では、たとえば大野正男裁判官などが、1948年からすでに何十年も経っていて、死刑制度の効力や意味内容が時代とともに変わっていくんじゃないかという意見を述べています。一応今のところ最高裁は、現在の死刑制度は違憲ではないという見解に立っていますが、今後は、動いていく可能性もあります。その点は押さえておいてください」
次回の授業では、大工の先輩と後輩が酒を飲み過ぎて喧嘩になり、後輩が内臓破裂で死亡してしまったという事件について、裁判員の立場で考えるために模擬裁判を行うという。本格的なディベート授業のときには、生徒各自に採点用紙を配り、お互いのディベート技術を採点する。
まさに筋書きのない授業。刺激的な白熱授業だった。これが海城の「社会1・2・3」なのである。