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名張毒ぶどう酒事件 その6

4、奥西さんのアリバイ 

裁判では、奥西さんはぶどう酒を会長宅から公民館に運んだあと、10分間公民館に1人でいたと、そしてこの10分の間にぶどう酒に農薬を入れたとされている。

 

しかし、奥西さんは、最初から「10分間、1人で公民館にいたことはない」と訴え続けている。

 

この「10分間が存在した」との裁判所の認定の根拠になっているのは、以下のようなSさんの証言である。要約すると

 

「私は17時頃家を出た。会長宅に着いて奥西さんと一緒に公民館に行った。この時奥西さんはぶどう酒を持っていた。公民館に行くと雑巾が無かったので、会長宅に自分だけで雑巾を取りに行き、すぐ公民館に戻ってきた。私が会長宅に雑巾を取りに行っている約10分間、奥西さんは1人で公民館にいた」

 

とする証言である。

 

しかし、この証言を否定する村人のNさんの証言もある。その証言の要点を列挙すると、

 

①Sさんは会長宅で私から風呂敷包みを受け取り、公民館に向かった

②Sさんが公民館に向かっている時に、私が会長宅の便所に入ったが、その便所から牛を運動させる奥西さんを目撃した

③便所から戻ってきて、帰り際に会長宅にぶどう酒が置いてあることに気づいた。それから奥西さんが来た。

 

このNさんの証言だとSさんが会長宅から公民館に1回目に移動する際に、奥西さんは同行できないことになり、奥西さんが公民館で1人で10分間いることもできない。もちろん、ぶどう酒も会長宅から公民館にまだ運んでいなかったということである。

 

そして奥西さんも起訴されたあとの手記でNさんの証言と同様のことを述べている

 

重要な点を要約すると

 

「牛の運動をしていたと。その時に、Sさんが1人で小さな風呂敷包みを持って公民館の方で上がっていった。そして牛の運動が終わった後、帰って身支度をして、会長宅に行った。そしてぶどう酒を持ってSさんと一緒に公民館に行った」

これらの証言、奥西さんの手記をまとめると以下のような、時系列の流れが真実である可能性が高いのではないだろうか。

①Sさんは会長宅でNさんから風呂敷包みを受け取り、1回目に公民館に向かった

 

 

②Sさんが公民館に向かっている時に、Nさんが会長宅の便所に入ったが、その便所から牛を運動させる奥西さんを目撃した

 

 

 

③Nさんが便所から戻ってきて、帰り際に会長宅に清酒2本とぶどう酒1本が置いてあることに気づいた。

 

 

 

 

④Sさんは公民館から雑巾を取りに再び会長宅に向かった

 

 

⑤Sさんは、雑巾(と竹柴)を持って、奥西さんは清酒2本、ぶどう酒1本を持って一緒に公民館に向かった。(その途中で出合ったFさんとも同行した)

この流れからして、奥西さんが公民館で1人10分間いることは無かったことになる。また詳細は省略するが、弁護団は、この事件の証言を元にぶどう酒購入の時間、会長宅にぶどう酒が届けられた時間、Sさん、奥西さん、Nさんの証言を元に、いろいろな再現実験を行った結果、奥西さんが1人で公民館に10分間いることができなかったとしているのである。

(詳細は、「名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者 江川紹子著 岩波書店」を参照されたい)

 

またそれを裏付ける新証拠が名古屋高裁の第六回再審請求において提出された。事件当時の名張署長の捜査ノート、いわゆる「中西ノート」と呼ばれる物である。

 

このノートには、事件後3~4日後の記述で、Sさんの証言として、奥西さんは公民館でSさんや別の主婦とずっと一緒にいたと書かれていたのである。

(Sさんは事件直後の新聞記者の取材でも同様のことを述べているのである)

 

事件直後の証言と大きく食い違う内容の供述は、やはり信用できないのではないか。

 

これらから総合的に考えると、奥西さんが公民館で1人で10分間いることはできなかったということになる。

 

つまり、裁判所の認定した犯行時間、犯行機会が存在しないことになる。

 

 

 

5、奥西さんの自白の信憑性

 

事件は1961年3月28日の夜に起きたが、奥西さんは事件翌日から取り調べを受けることになった。最初は任意捜査だったが、奥西さんは三角関係のことを疑われ、厳しい取り調べを受けることになる。

 

深夜まで取り調べが行われ、それが終わった後にも自宅の中にまで捜査官が2人配置され、奥西さんがトイレに行く時も、戸も開けて用を足すように指示された。妻もこの事件で亡くした上、娘が小学校の入学式が迫っているなど、精神的に極度に追い込まれていた。

 

家のことをいろいろしなければいけないと追い詰められる中で、早く家に帰りたい一心で、妻が犯人かもしれないとの供述をしてしまう。その影響で、今度は妻の母から血相をかいて責めたてられる。

 

また捜査官から「おまえが妻が犯人だと自白したから、おまえの家に部落の人間が押しかけている。おまえの親父、お袋も、もう自殺すると泣いてるぞ」とまで告げられる。そのように追い詰められた中で、自分が犯人だといった方が家族の為にもなるかも知れないと考えるようになったようである・・・。

 

さて、奥西さんの自白の内容で重要な点は以下の4つである。

①妻と愛人の三角関係の清算の為に、3月10日前後から二人とも殺してしまおうと考えた。

 

②事件前夜20時頃、自分で作成した竹筒に、自宅にあった農薬のニッカリンTを入れて新聞紙で栓をしたものを用意した

 

③竹筒に入れたあとのニッカリンTの残りが入った瓶は、犯行当日の朝、近くの名張川に投げ捨てた

 

④公民館で一人になった隙に竹筒の中に入ったニッカリンTをぶどう酒の中に入れた

 

⑤ニッカリンTが少し残った竹筒は、公民館のいろりで竹柴とともに焼いた

 

これらの自供の全てにおいておかしな点がある。順を追って見てみよう。

 

①についてだが、三角関係と言っても、本職が農業での兼業で三人が同じ職場で働いたり、三人で映画を一緒に見に行ったりの関係であり、奥西さんが、奥さんと愛人の二人とも殺害しようと考えるまで、こじれた関係ではなかった。

 

②殺人前夜に自宅でニッカリンTをいれる竹筒を作成している際に家に村人が訪問していたが、(普通ならまずいときに人が来たと考えるはずだが)このことに奥西さんはまったく心に動揺があった供述は一切出てこない。竹筒を作り、それにニッカリンTを入れ、蓋をして隠す間に訪問客に見つかるかもしれないのにである。しかも奥西さんはこの訪問があった日を最初間違えて26日と勘違いして供述をしていた。大犯罪を計画して準備している日の出来事は、本来鮮明に覚えているのではないか。

 

③ニッカリンTのところでも書いたが、名張川には4月3日に三重県警捜査本部16人と地元消防団員45人が動員されて、かなり大掛かりな名張川の捜索を行ったが、瓶らしきものさえ見つからなかった。また奥西さんは、ニッカリンTの瓶を川に投げ捨てた際には、ぷかぷかと浮いて流れていったと明確に証言している。しかし、後に警察による瓶の投棄実験では、何度やっても水の中に沈んでしまったのである。(※ニッカリンTの比重は、1.185(20℃) 医薬品情報21より引用)

 

④そもそも公民館で奥西さんが1人になった時間は無かったのではないかと思われる。これについては4のアリバイのところで説明したとおりである。

 

⑤竹筒をいろりで燃やしたのであれば、燃えかすがいろりに残っている可能性が高い。実際に裁判所が後に検証を行い、竹筒を柴と一緒に燃やしたところ、竹筒はほぼ原形をとどめてた形で確認されている。

 

またニッカリンT(有機リン剤)が竹筒に残っていたのではあれば、燃焼してもリンの成分は残る可能性が高いが、いろりの灰の中からはリンは一切に検出されていない。

 

これらからして、奥西さんの自白は、それを裏付ける物的証拠は一切になく、むしろ矛盾だらけのように思われる。

 

 

裁判所の原則「疑わしきは罰せず」ではなく「少しでも疑わしきは罰する」になっているのではないか。

 

この事件は、以上のように奥西さんが犯人だとする物証は無く、あえて言えば追い詰められた際の自白だけだ。

 

その自白も矛盾ばかりではないか。これで死刑判決は、あまりにひどい冤罪事件だとしか言いようがないと感じた。

 

興味をお持ちになった読者の方は、一度自分でも調べて頂きたい。

 

 

※)参考文献・データ

「名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者 江川紹子著 岩波書店」

「名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀 東海テレビ取材班」

「東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」

https://www.youtube.com/watch?v=CSXhi51sbkU

「名張毒ぶどう酒事件 奥西勝さんを守る東京の会

http://www5a.biglobe.ne.jp/~nabari/
ziken_naiyou.html

「名張毒ぶどう酒事件とは【奥西勝】」

https://matome.naver.jp/odai/
2139624134852820701

「NNNドキュメント‘06 名張毒ぶどう酒事件」

https://www.youtube.com/watch?v=t_4sAaMhk28

https://www.youtube.com/watch?v=MVgJIh9HKJ4